先日、久しぶりに「かかし」を見かけた。
かかしの顔には、少女漫画のような目と鼻と口なんかが描かれており、
顔から俗に言う「人間」 を認識するための要素が含まれている。
少女漫画のようなかかしが存在する理由はいくつか考察できる。 例えば、近隣の方から怖いという苦情が入っただとか、 少女漫画好きの子どもが描いてあげただとか。 文脈はない。だからこそ、かかしのストーリーは想像次第だ。 かかしに顔が存在することは社会における常識なのだから。
ふと思う。 「かかしの顔はへのへのもへじではなかったのか」と。
かかしに顔が存在することと同時に、 かかしの顔にへのへのもへじが存在すること。 これもまたひとつの常識だ。 だが人間をより模ったかかしに、 なぜへのへのもへじが描かれているのだろうか。 人間を模るのであれば、少女漫画のような目を、 鼻を、そして口を描けばよかったのではないか。 へのへのもへじのストーリーは想像しても展開できない。 スマホを片手に「へのへのもへじ 歴史」と 問いかけても、答えは曖昧だ。
社会における常識とやらは、 思ったよりも厄介だったりする。 常識は一方的な情報として認知されることに止まり、 疑う機会を投げかけてはくれない。 思考を止めた私たちもまた、 いつしかへのへのもへじのような 曖昧な存在になっているのかもしれない。
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