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江島綺有

スマホに感動なんてしてません、私たち



先日大学の先生を交えて スマートフォンの使い方を複数人で話す機会があった。 少しその会話にお付き合い頂きたい。

先生「君たちはなぜガラケーからスマホに切り替えたのかな」 「流れ」 「友達がみんな変えたし」 先生「僕はLINEでの連絡が楽そうだし始めたんだけど…  そういうきっかけはないの?」 「ガラケーの機種変と同じ感覚(笑)」 「あ、わかる!別にスマホって特別感なかったよね」

考えてみれば、私も驚いた記憶はない。 周りの大人が皆、感動したでしょ?と言うものだから、 私もそうだったと勘違いしてたのかも、なんて。

では、なぜ私たちは革命的ともいえるスマホに さほど感動しなかったのか。

会話はこう続く。

「ていうか、そもそも携帯にもタッチのやつあった!」 「それスライド式でボタンついてる2wayのやつ!」 「タッチと言えばむしろDSじゃない?(笑)」 「小学校の図書館の蔵書検索するヤツ、タッチだった(笑)」 「懐かしい!めっちゃ懐かしい!!!今もあるのあれ?」 「最近はiPad取り入れてる学校もまあまああるんでしょ?」 「イマドキだね~。私たちも時代遅れなのね!(笑)」 (先生は考え込むご様子だった…。)

たしかに。 何となくでiPadやスマホは“最新” というイメージこそあるものの、 私たちにとって画面をタッチするということは、 さほど驚くことではないのかもしれない。

ではもう一つのガラケーとの差、アプリはどうか? そちらもパソコンで「インストール」という行為に慣れており、 利用者としては革新的というほどのことではない。 「デスクトップにアイコンを表示しますか?」 「はい」「いいえ」 こんなやり取りも慣れっこだ。

「それが小さくなっただけデショ…?」 技術者の方など、知識のある方からすれば 「小さくしたことがすごい」のかもしれないだが、 それはあくま感動ではなく「便利さ」だ。

こうして考えていくと 先入観のない無知な若者の「普通」には 未来の可能性が隠れているかもしれないが、 皮肉なことに「普通」と思っているので 若者の方からアイディアを提案してくれることはない。

結局若者はさらに想像もできないミラクルなこと でないと感動はしないようだ。

だけどソレが完成して私たちが感動する頃、 私たちはその時代の若者ではなく、 “その時代の若者”にとっては それが次の「普通」だったりするんだなあ…。

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